アブノーマル版アバンに直結して、夕刻の街の場面となる。
これは渋谷といった特定の街ではない。オープニングがそうである様に。
美しく成長したありすが、婚約者と新居の相談をしながら歩いている。
恐らく伴侶に選ばれたのは、中学生時代に憧れた教師なのだろう。
歩道橋の欄干に、そっと手を乗せる――
ふと見上げたありす、歩道橋に立っている人物を見て、将来の夫に「ちょっと待ってて」と駆け出す。
待っていたのは、玲音。穏やかな顔で見つめていた。
ありすの玲音と過ごした記憶は当然失われている。いや、存在していなかった。
だが玲音には懐かしさなのか、何かとても気になっている。
教育実習で会ったんだっけ? と自問するが、玲音は――
「はじめまして」
「え?」
「はじめまして、だよ」
この台詞に、シナリオライターとしては万感を込めた。
玲音という少女は、自分がどういう出自、経緯で生まれたかははっきりしないが、明確な事はある。それは「誰とも繋がっていない」存在だった。
その彼女が、岩倉家で、学校で、ワイヤードで、人と繋がってはじめて「玲音」という存在になった。
ワイヤードはウィアードであり、人の悪意や意図せぬ攻撃、負の感情の拡大などでリアル・ワールドにバイアスを掛け、歪める時もある。だが、それも紛れもなくコミュニケーション。
他者と触れ合わなければ、人は人とは言えない。
玲音がどれほど辛いものであっても、自分の記憶を抱き続け、そして初めての「友達」となってくれたありす、そしてワイヤードで触れあった人達を、見つめ続けるという玲音自身の「選択」をした。
シリーズを通して、異様な物語の異様な出来事に翻弄され続けた玲音だが、最後には自分自身の意思を通した。
この場面のアニメーション、そして清水香里さんと浅田葉子さんの演技。全てが完璧だった。
隆太郎さんはまた違う感想を抱いていたかもしれない。しかし私には理想的だった。
そしてありすと婚約者は玲音に別れを告げ去って行く。
いつかまた会えるよねと告げ。
ありすが去って行く姿を見つめ続けながら、玲音は言う。
「そう、いつだって会えるよ……」
シナリオでは「いつだって会えるよ、ありす……」と書いており、コンテでもそうなっていたのだが、アフレコの時私は考えを変えた。
この後のエピローグは、玲音が視聴者の前にメタとして直接話法で語りかける。
シリーズを通して我々が訴えねばならないのは、「玲音を好きに」させる事なのであり、それは視聴者に普く向けられなければならない。
だから「ありす」というダイアローグを削ろうと思ったのだ。
ロングで口が見えない箇所なので、問題はない。
隆太郎さんにも確認し、削った。
でも20年後に見直した時、やはりこの場面は「玲音とありす」の物語の終幕なのであって、削らなければ良かったと強く後悔した。
康雄との場面は、何回か観る内に「これでいい。これが正解だった」と思う様になったのだが、この歩道橋の最後の台詞を削ったことを、20年後に後悔する程往生際が悪いとは、自分でも驚く。
この最後のカット、もうありすはおろか他の人間は消えている。
オープニングに「繋げ」た。