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serial experiments lain 20th Anniversary Blog

lain 玲音 レイン れいん

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 同時視聴会の話数も進んできた。
 4,5話は中村隆太郎監督参加以前に書いたが、1クール構成なので既にセットアップも終わる事になる。
 こうして回顧を書くのは、20年という長い長い時間が経っているからで、そもそも抽象的な物語を言葉で説明する事自体は実に格好悪いものだという自覚がある。
 こうして書いている事は、20年後に当時の事を思いだしての記述であって、記憶違いや忘れてしまった事は少なくないだろう。
 そして、「serial experiments lain」シリーズの物語は、私なりにはロジカルな組み立てをしているが、異なる物語を読んだ視聴者の過去の体験を否定したくない。なので本ブログの回顧は決して「答え合わせ」なのではない事を今更ながら宣言しておきたい。

「なるべくアウト側に偏心」する事を心掛け、中村隆太郎監督、岸田隆宏さんらのワークから可能な限りフィードバックを受けて、演繹的に作り上げる事を理想とし、インプロヴィゼーション的な構築こそが美しいと思っていた。
 だが、第一話目から千砂のメールで「ワイヤードには神がいる」という記述をしているのは、紛れもなくヒロイン・玲音が最終的には神と対決する構造になる事を示唆していた。だから大枠としては粗く抽象的ではあるものの、私の中では全体構成は先に出来ていた。
 如何にその「本線」に真っ直ぐ飛び込まず、不規則的な軌道で向かっていくかが私自身の課題だった。これはオンエア後間もなく出版したシナリオ本の注釈には書けなかった事である。

 実際の時間軸ではもう少し後の出来事なので後に改めて記すが、中村隆太郎監督は「lain」に限らず、他スタッフとの共同作業を「セッション」的な感覚で捉えていた。従って各部門のパートナー即ち、脚本、キャラクター・デザイン、画面構成、コンテ、演出、美術設定、色指定等々のスタッフは全幅の信頼を求められた。
 これはどの監督にも言えるのかもしれないが、可能ならば自分で全話のコンテ・演出をやりきる事が隆太郎さんの理想だったが、現実的には到底無理であり、ならばそこで他のコンテ、演出の個性を活かすか、自分色に塗り替えるのかの間で隆太郎さんはずっと揺れていたと私は思っている。
 ただ言えるのは、一期一会的な他スタッフとの関係を、ジャズの「セッション」の感覚で捉えていたのは間違いない。細かく段取りをしてすりあわせをするのではなく、「勝負」をしていたのだ。

 だから私に対しては「こういう話、こういう描写を書いてくれ」というオーダーは一切無く、「小中さんがこう書いてきたなら自分はこういく」という姿勢を「神霊狩 -GHOST HOUND-」まで貫かれた。
 

 さて、4,5話で既に「ワイヤードのレイン」がはっきりと画面に登場してしまう。そしてそれは玲音と全くの別人格という訳ではない事も判る。
 明確なシリーズ構成表を記さなかった事による大きなデメリットとして、「様々な玲音」を如何に判り易く視聴者、それ以前に現場スタッフに周知させるかが問題となり、場当たり的に「玲音」「レイン」「れいん」「lain」とシナリオ上で書き分ける事にしてしまったところがある。
 映像作品では全て「玲音」であり、その多面性が伝われば物語として成立するのだが、「あの玲音」と特定のステイタスを表す場合には、視聴者、というより今になって「lain」について言及する人達には面倒な混乱の元にもなってしまった。
 また、これは「THE ビッグオー」の最初のシーズンもそうなのだが、「lain」は海外の人が視るなどという想定を微塵も考慮せずに作っており、恐らく今となっては総数として海外視聴者の方が多そうなのだが、ドメスティックな表現の中で、同じ音韻の「れいん」で様々な表記をするなどというのはナンセンスな行為でもあった事を、今更ではあるが反省している。
 ただ逆に見ると、一つの音韻で様々な表記が可能な日本語だからこそ、この物語、あのヒロイン像が生まれたのかもしれない。

 今後の各話回顧はやはりシナリオ執筆時(コンテまでそれは維持される)の表記で書き分けていかざるを得ない。

 ところでどれがどうなのかは、このTweetがほぼ的確な指摘をされていた。これがTweetされた頃、私はlain関連のエゴサーチをしていなかったので(タグなしで「lain」で検索すれば絶望出来る)、これを見つけたのはつい最近の事だった。