welcome back to wired

serial experiments lain 20th Anniversary Blog

Layer:06 KIDS - Into wired

f:id:yamaki_nyx:20180609101558p:plain


 中村隆太郎監督の演出法が見え始めた頃に書いたエピソードだった。
 私は実写であれアニメであれ、30分(22分)には最大限に情報量を入れ、細かいシーン・バックで展開させる方が多いのだが、「serial experiments lain」では極力、静的な話法を貫くべきだと判った。それが中村隆太郎監督のイマジネーションを喚起させ易いからだと判るのは終わってからの事だが、直感的にそうすべきだと思っていた。

 サブタイトルはラフ構成案にあったものがそのままで、タロウ達サイベリアの子ども達を軸にしたエピソードを(ぼんやりと)想定していたのだが、5話までワイヤード内描写を避け続けてきて、もう限界だと痛感していた。
 隆太郎さんならワイヤードをどう描くか。私からカードを切らないと始まらない。

 

 絵コンテ+演出:中村隆太郎 作画監督:菅井嘉浩
 画面設計はシナリオ本には岸田さん一人しか記されていないがエンド・クレジットだと
 岸田隆宏 新井浩一 須賀重行(!) 坂寄隆好

 


 シリーズ中、最も虚構性が高く、「正直意味判らない」と思った人が多かったとは思う。
 こちらも「判らせる」事を諦めていたのだから仕方ない。
 しかし虚構内整合性をとるよりも、ヒロイン玲音の「変化」を感じて貰えたらこのエピソードの役割は果たしていた。
 本ブログでこれから記していく事柄の多くは私の「脳内設定」に過ぎず、隆太郎さんにも「説明」は全くしなかった。隆太郎さんの解釈と私のそれとが合致していない可能性が大いにあるが、それでも構わなかった。
 設定の説明はばっさりオミットしてまで間合いを入れたのが6話だった。


 アバンの夜の渋谷バンクは、「つながる」事についての言及に絞られつつある。つながってなんかいないという人もいれば、つながる事に意味や可能性を見出そうとするのが今話のヴォイス・オーヴァー。

f:id:yamaki_nyx:20180609101551p:plain

 電柱・電線の「ぶーん」の後、
 岩倉家の暗い2階廊下に佇む康雄。玲音の部屋を覗くまでたっぷり15秒。殆ど動きはない静謐な導入。勇気があるコンテとしか言い様が無い。

 

f:id:yamaki_nyx:20180609101537p:plain
「玲音、はいるよ」
 大林さんの、普通とはちょっと違う台詞ニュアンスは、隆太郎さんのコンテ通りの口パクに完全に合わせられていたから生まれたと思う。
 普通なら、もっとノーマルに寄せるか、著しく外れるなら「タイミング」と言って口パクの方を後でやりくる。
 しかし中村隆太郎監督+鶴岡陽太音響監督の現場では、完全にコンテのパクに合わせる方針だった。後で言及する「カール!」も全く同じなのだ。

 結果として、康雄という人物には独特の個性が更に視聴者には印象づけられている。
 シナリオでは水が階下に漏れてる云々のやりとりがあるのだが、隆太郎さんはオミットした。そして、康雄の絶望的な感情をたっぷりと描いた。

f:id:yamaki_nyx:20180609101544p:plain

 CRT以外に仮想スクリーンが幾つも浮かんでいる。
 20年前、よもやビスタビジョンの画角がマジョリティになろうとは全く予想出来なかった。私の様な縦書きの物書きにとっては、ワイド画面よりもスタンダード画角(で高密度)なモニタの方が有り難い。しかし液晶メーカーは多勢のサイズを大量生産する事でコストを下げている……。

f:id:yamaki_nyx:20180609101531p:plain

 康雄ならずとも、この部屋の惨状には驚かれるだろう。
 夥しく水が漏れ出しているのは、送風機程度では追いつかなくなり水冷クーラントを循環させる電動ポンプが幾多も作動しているからだ。
 メインのNAVIは相変わらず卓上のマシンなのだが、拡張に継ぐ拡張で計算も並列化させ、更にオーヴァー・クロックで常用している。GPUを外付けにするというのは、近年のPCIe規格が出来てからは普通に製品化される様になったが、当時はマザーボードから離して設置するなど考えられなかったと思う。

f:id:yamaki_nyx:20180609101655p:plain

 玲音はワイヤードと「つながって」おり、恍惚的な表情を浮かべている。
 それが康雄を絶望させている。

f:id:yamaki_nyx:20180609101702p:plain

 

f:id:yamaki_nyx:20180609101640p:plain
 この「チャット」(囀り)場面は、背景こそデジタル撮影が使われ(ダイアローグに合わせて明滅)ているものの、玲音の描写は完全にノーマルなセル・アニメーション。「抽象的な空間」は寧ろテレビ・アニメの方が当たり前に描いてきた世界だった。

f:id:yamaki_nyx:20180609101648p:plain


 さてワイヤード内。玲音は「みんな」と愉しく話しているが、他者の声は玲音にしか聞こえず、モゴモゴとしたノイズで表現されている。
 シナリオのト書きでは「呻き」とだけ書いたが、ホン読みの時に多分私はこう説明した筈だ。
 昔NHKで放送された「スヌーピーチャーリー・ブラウン」(谷啓さんがチャーリー役だった)は、大人の声はミュート(消音器)をつけたトランペットなど楽器で表現され、子ども達の台詞だけでやりとりをしていた。大人そのものが画面には映らないのだから、こういう演出で、非常に印象的だった――と。

 この「みんな」がナイツだと玲音は認識しているが、まだその素性や意図は判らない。

f:id:yamaki_nyx:20180609101840p:plain


「あたし、友だちって少ないから……」

f:id:yamaki_nyx:20180609101833p:plain

 翌日、登校しようとしている玲音が、立ち止まり空を見上げている小学生を見掛ける。
 という場面なのだが、どう見返してもバンクの坂道と小学生は繋がっていないジャンプ・カッティング。普通なら「ミステイク」なのだが、バンクに手を加えるよりはモンタージュで「伝える」事を選んだのかもしれない。
 今話は斯様にアブノーマルな演出が頻出する。

f:id:yamaki_nyx:20180609101825p:plain

 この時玲音には空には電線以外なにも見えてはいない。

f:id:yamaki_nyx:20180609101818p:plain