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serial experiments lain 20th Anniversary Blog

私と計算機


 私は手書きでシナリオを書いた事がない。
 いや自主映画時代は勿論手書きだったが、1984年の作品ではワープロ印字して配布する事をしていた。しかし到底それらはシナリオと呼べるものではなかった。
 

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 1988年に「狙われた美人キャスター」(後の「サイキックビジョン 邪願霊」)のシナリオを受注する頃、私は仕事先で使っていた業務用OASYS富士通ワードプロセッサ専用機)を自宅でも使うために、リース落ちの業務機を購入した(それでも30万円くらいはした)。
 だからキータイプも親指シフト配列に慣れていた。

 しかし如何せん縦書き表示すら出来ない(印刷時に設定は出来たが)OASYSを長くは使えず、Windows3.1上で走るアプリケーションのOASYSへと移行する。最初はFMVを購入したが、すぐにショップ・ブランドのPC/AT互換機、そして自作機へと進む。
 当時の物書きのマジョリティはNECのPC-9800シリーズで一太郎というのが鉄板だった。
 MS Wordなどを使うのは素人というのがパソコンユーザの共通概念だったのだが、90年代後半になると完全にWordがデファクト・スタンダードとなってしまい、私も2000年代以降のシナリオはWordを使っている。

 パソコンとて仕事としては文字書きとファックス送信(いやこれも出力して送っていた気が)程度にしか用途が無かったのだが、パソコンについて知るほど興味を増していった。

 ただ完全な文系である私は、PC-8800シリーズでゲームのプログラムを打ち込んでいた様なヘヴィー・ユーザーは雲の上の存在だった。
 config.sysやautoexec.batを弄って数kbのメモリ領域を確保する――といった今でいうハッカー的なテクニックを知っては面白がっていた。
「パソコン見栄講座」の様な本が主な情報源だった。

 1990年に私が初めて書いたテレビドラマ「キムチ物語」(関西テレビ)は何か原作があったのかも忘れてしまったが、割と普通なホームドラマで、主人公サラリーマンの日常会話で「config.sysがさー」みたいなダイアローグを書いた覚えがある。

 

 94年頃か、高嶺の華だったMacintoshが低価格機をリリース。LC520というカラーモニタ一体型機を購入し、"For rest of us"(MacOSがPC操作に不慣れなユーザにもフレンドリーというキャッチ・コピー)の一人である私は当然の様に購入し、仕事はPC/AT互換機、画像加工やネット接続はMacという二輪体勢になる。


 ネットの話は別に稿を記すとして、やはりMacintoshの与えてくれたものは大きかった。こんな事まで出来るのかという驚きが尽きなかった。
 しかも多くの事は新たにソフトを購入せずともHyperCard(一種のカード型データベースソフトなのだが、後のFlashの様な事が作れるマルチメディア・ツールだった)だけでも相当に遊べた。

 この最初のMacで自分でメモリを増設するという暴挙に出る。16MBのメモリが数万円だったか。静電気に注意しろとは言うがまあなんとかなるだろうと雑に作業をしたら、これが起動しなかった。
 結局メモリを買い直し、今度は下着1枚になって静電気を極力出さない様にして作業をしたところ、やっと認識してくれた。

 中村隆太郎監督も同じ様な体験をしていた事を知る。
 玲音がNAVIを延々と拡張していく中盤、下着1枚になって基板にアクセスしている場面は、別に変な色気を演出する為ではなく、あの頃のPCパーツの脆弱さにエンド・ユーザが採れる策だった事によるリアルな演出だった。

 PowerMacの時代になって私はQuadra840AV、Quadra950、SuperMac互換機と使い続け、特にモバイルではPowerBook Duo 230→280c PowerBook240、MacBookProと使い倒したが、MacOS9の更新が滞り、コードネーム Coplandlainに於けるNAVIのOSの名称はこれに由来する)は潰え、期待されていたRhapsodyが放棄されてしまう。
 NeXT Stepを開発し終えていたスティーヴ・ジョブスが三顧の礼Apple Computerに呼び戻され、UNIX起源なMacOSXに乗り替わる。
 旧MacOSの互換性はすぐに切り捨てられていく様を見て、私はAppleに見切りをつけざるを得なかった。最後に使っていたのはQuickSilverPowerMacだった。


 だが「serial experiments lain」を製作している頃のAppleは、ネットに、マルチメディアに革新的なプラットフォームを次々と提供する、崇敬すべき存在だった。
 画像のPhotoshopIllustrator、映像加工のAfter Effectsノンリニア編集はDV登場以前はPCが優位だった)、音楽ではLogic、出版ではPostScriptというプラットフォームを敷いておき、Aldus PageMaker, QarkXpressがDTPという概念を業界に一気に広まらせる。
「コンピュータで出来る事」を広げたのは、ジョブスが不在時のAppleだったのだ。

 ジョブスが早逝した後、彼の存在が神格化されてしまったが、いや実際革新的な事ももたらしたけれど、iPodが出るずっと前に、既にMP3プレイヤーは存在していたし、色々もやもやと思う事はある。

 

 環境さえ揃えれば素人がゼロから商業クォリティ(とは実際違うのだが、一見迫れている)のものを作れる。それを為せたのはMacOS9時代だった。
 90年代後半のMacはまさに「夢の箱」であり、「lain」スタッフは皆その意識を共有していた。
 ただ、「失われたOS」Rhapsodyや、互換機で派生したBeOSの登場など、ポスト・Appleの時代を匂わせ始めた節目の頃でもあった。
serial experiments lain」での「NAVI」の描き方は、そうした我々の「感覚」が結晶化した描写だったのだ。