5話目にしてついに中村隆太郎監督はコンテを譲るものの、13話の内コンテを担当していないのは5,9, 10話のみ。またその3話分も結構手を入れてはいる。
5話は「一番怖かった」という人もいた程、特異な回になった。コンテ+演出は村田雅彦さん(ずっと後にACTGの『GR』で再び仕事が出来た)。作監は1話以来の関口雅弘さんで、画面設計クレジットは無い。
シリーズでは毎回冒頭の夜の渋谷イメエジのバンクで、Twitter読み上げ的なヴォイス・オーヴァーを導入しており、それらは散文的で意味がありそうなものと無いものとが混在させている。
しかし――、今回は意味どころがラスボスが冒頭、かなりの長い台詞で玲音に語りかけてくる。
まだこの時点でワイヤードの神=当初はデウスと呼称していたが、そのデザインは出来ていなかった。
しかし速水奨さんをキャスティングしているので、監督も私もイメエジは通底していた事になる。
国や民族によっては物議を醸すやもしれないが、どのみち物語でも「false god」ではある。「ぼくはかみさまだよ」という神はいまい。
ただ玲音には、千砂からのメッセージが記憶にあった。「ここには神様がいるの」
今話は美香にフォーカスを当てる回なのだが、玲音が自分を取り巻く不穏で抑圧的なものの大きさを、「家族」でありながらノーマルな「姉」が一挙に玲音の置かれてきた状況に投げ込まれたらどうなるだろうか、という観点で物語を考えている。
視聴者は当初から玲音が、何か普通と違う感じを抱いているが、シリーズのトーン自体が「普通ではない」為に、視聴者がそうしたシチュエーションに「慣れ」て貰っては困るという裏の意図があった。
言ってしまうとスキゾフレニックな混乱によって壊れていくプロセスを描いている。
もうこれを書いた時の記憶がないのだが、シナリオ本によるとこの話数を書いている時期、熱を出して体調が悪かったらしい。本当に倒れそうなら書ける訳が無いのだけれど、この時期の私は矢鱈と忙しく、少々の体調の悪さで書くのを止める訳にはいかなかった。
下校してから美香は、あまり愛着が無さそうな彼氏の部屋で過ごしていた。
「lain」シリーズは「肉体の感覚」という描写をなるべく入れようとしていた。物語自体がコミュニケーションであったり、共有される幻想であったりと抽象的で観念的な分、リアル・ワールドでの人々の描写にそうした要素を強める事でバランスをとろうとしていた様だ。
康雄と美穂のキスもそうだし、美穂の食事時の音もそうだし、美香の「行為後」を描いているのもそうした動機からだった。
一方で玲音自身にはそうした描写が終盤になるまで殆ど無い。これはシナリオから更にコンテで強調されており、岩倉家の食卓にて、玲音はいつもいたずらにスプーンでスープをぐるぐるかき回しているだけで、「食べて」いない。
美香は彼氏の事ばかりだけではなく、自分を取り巻く全てに苛ついている。真っ直ぐ帰宅せず渋谷に出るが、そこで自動運転車の事故に遭遇する。この事故については後でニュースの説明が入るが、美香は無関心でいる。
さて、玲音が「お話」するパートが4つ挿話として入る。
この場面の玲音の部屋は全て、まだNAVIに手を出す以前のガランとした描写になっており、時制として過去だという事は判る。
ではどれくらいの過去なのか。
最初に話すのはシナリオでは「ジェニー人形」(ジェニーはタカラトミーの登録商標なので、表立ってそうだとは言えないのだが、岸田さんのデザイン、アイ・プリントが紛れもなく――)。
玲音は無邪気に、殊更に子どもっぽく「お話して?」とせがむ。
この4つの場面は全く同じシチュエーションで、話し手だけが入れ替わり、玲音の描写は共通しているのだが、これらは演劇的な抽象化をした「過去の玲音」を点描している。
まだ自意識・自我が幼い時期からのそれなりの期間であり、後半は最近の回想という事になる。
この最初の人形が述べる認識論は観測者問題についてであり、実のところ極めて本質の問答をしている。
自動運転の車が普通に行き交うのが現実に有り得るのか、今尚私には全く実感がないのだが、交通量の少ない過疎地などではニーズがあるだろうし、今後は期待されていくだろう。商業車の運転者はどんどん少なくなっている。ただ本稿執筆時点(2018/06)では、実験走行での事故が頻発している。
渋谷の街では、互いに気づいていないが美香と玲音が同じ空間にいる、様に見せている。
ティッシュ配りに押しつけられ、ぼうっとしていると男子児童が背中から声を掛けてくる。
タロウ、美香に「ナンパして、いいっすか?」突撃。
タロウは歳上女性に憧れるタイプなのだろう。
憮然と無視して行こうとする美香、タロウが持っている缶コーラが腕に降りかかってしまい、タロウは「やべー」と逃げてしまう。
さっきのティッシュで拭こうとすると――、ティッシュにはおぞましい血文字。
シナリオのイメエジとは違いかなりの達筆で、まるで檄文の様な筆致。
そう言えばJJが言った「オルグする」という言葉も、20年前のクラブ・カルチャーでは確かに在った言葉だが、そもそもは全共闘世代の用語でもあった。
サイベリアで踊る人々の描写は、枚数かけてられない懐事情もあって、ディスコというよりはゴーゴークラブに近いかもしれない。今言っても詮無い事ではあるが、クラブ・シーンはもっとちゃんと描きたかった(隆太郎さんとロケハンに行って)と、「Cyberia Mix」がリリースされてから思ったのだった。JJがプレイする場面もなかったし。
今話はきちんとした3幕構成ではなくランダムな作話なので、一旦ここで切る。