私服のありす――
電線の下、坂を上って岩倉家を目指している。
玲音の部屋だろう箇所の壁が異様な事に、ありすは既に不安を抱いている。
呼び鈴を鳴らすが――、ピンポーンの「ン」のピッチがダウンする。
応答は無い。
門扉に触れると、すぐに開いてしまう。
恐る恐る、ドアを開けて中を見ると――
明らかに「何者かが荒らした」様な荒廃をしている。
だが、ありすはそこで逃げず、靴を脱いで上がる事を決意。
玲音に会って訊かねばならない事があるからだ。
ペンキがぶちまけられた様な有様は、抑圧下にあった玲音が生んだ、「暴力的玲音」がやったのだ、と私は考えている(シナリオには書いていない、コンテの描写からの解釈)。
居間を見やると――
家族は誰もいない。
奥の階段に進むと――、靄が掛かっている。
階段を昇ろうとすると――
「ピーピーピー ガー」
この世の者あらざる様な美香がいる。
あまりの恐ろしさに壁際にもたれしゃがみ込んでしまうありす。
しかし――、
もう美香の姿は消えた。
ありすは自らを必死に奮い立たせて、二階へと上がっていく。
この美香の「ピーピー ガー」も、若い人にはピンとこないだろう。
これから僅か10年弱で光回線が整備されるとは予測出来なかった。
この「不穏な家にて止めた方が良いのに、2階にいる存在に向かって上っていく」――というシチュエーションは、「恐怖の作法 ーホラー映画の技術」に書いているが、私がファンダメンタルな映画的恐怖表現というものを見出した、「家」(1976)というホラー映画のシチュエーションをなぞっている。
盛大な効果音と共にいきなり画面におぞましいものが飛び出す表現は「ショッカー」であり、「ホラー」とは椅子に座って見ている観客の姿勢をじりじりと変えさせる様な、こういう表現なのだ。
だが「lain」に於けるこの場面の趣旨は「観客を恐怖させる」事にはない。
寧ろ、視聴者が「行かなくてもいいのに」と思う様な行為を登場人物がとる事で、初めて「ありす」はヒーローに近しいこの物語のキー・キャラクターとなり得るのだ。
そうまでして、「友達」に会いに行く――(その気持ちの中には非難したいという感情も勿論含むが)。
だからこの場面は、他の回のどの場面よりも恐ろしく描く必要があった。
二階の部屋で、玲音がどういう状態にあるかは視聴者は既に知っているのだから。
中村隆太郎監督は、この場面の背景を執拗に加工していたという。
その上、更に画面にフォギー・フィルタを重ね、凡そテレビ・アニメの表現を逸脱したエクストリームな画面となっている。
話的にはこの後の場面も一連なのだが、何しろ凄まじいカットが膨大で、キャプチャした画像が多過ぎるので、エントリをここで分ける。